不適応行動の治療
人間の精神的不調にもいろいろあるのだが
その中で、なぜだか、現在の状況にそぐわない行動をしてしまい
結果として不適応を起こしている人達がいる
現在の状況に応じた合理的な行動ができなくて
子供の頃に身につけたままの古い行動パターンで対処している人が多い
ーーー
まず、あなたの目的は何かをまず明確にする。目指しているが達成できないことは何かを明確に
する。
その目的のための手段としてどのような行動を採用しているか分析する。
その手段がどのように不適応であるか理解する。
そしてその不適応行動の根源は人生初期つまり子供の頃の体験であったことを示す。
子供の頃としては適切な行動であったものが、現在となっては不適切な行動であることを示す。
その学習からいかにして抜けられるかを示す。
ーーー
学習には強い学習から弱い学習まで幅があり
概ね、強い学習は人生に数少ない機会にしか起こらない
強い学習は、同時に、訂正が困難ということでもある
したがって、学習を訂正していただくにあたっても、特別な工夫が必要になる。
今は「閉じて」しまっている強い学習回路を、訂正可能とするために「開く」必要がある
そのために治療者との信頼関係を使い、薬剤の効果を使う
ーーー
たとえば
子供の頃親との関係で学習した行動パターンであれば
現在、かつての親と同等程度の信頼関係を築ける人間を相手にして、再度学習する
たとえば
思春期にホルモンのスパートがあって学習した行動パターンであれば
再度類似の状況を作り、学習すれば良い
人間に、一生に一度の学習は色いろあることがわかっている
そこで学習したことが
後の人生で役立たない場合、訂正が必要である
ーーー
以上は適応障害の問題であるが
精神病についても推論できる
概ね人間は、生まれた環境でドパミンレベルがセットされるし、行動パターンもセットされる
出産して子育てをして次の世代を育成するまで
たぶん30歳か40歳くらいまでの設定だろう
その範囲では大きな環境変化はないものとして設計されているのだと思う
ーーー
ところが近年では環境変化が激しい
ひとつには同じ場所でも環境が変化し
ひとつには人間が移動するのでその人にとっての環境が大きく変化する
そういった環境では当然のことであるが不適応が発生しやすい
強い学習を訂正するほうが変化には強いのであるが
強い学習を維持することのメリットもまた大きいのであるから
ここには矛盾がありどちらが有利とも言えない面がある
ーーー
産業革命と、地方農民の次男三男が都会に集まり社会を形成することは
表裏のことと指摘されている
子供時代に田舎でドパミンレベルと行動パターンがセットされた個人が
都会に住む場所を変えて仕事も変えて対人関係様式も変える
そこに発病の機会が発生する
ーーー
現実の状況に対して
行動が不適切である場合
を考える
人間はそれぞれの場面で
自分なりに最も適切と思う行動を選択しているのであるが
例えて言えば算数の計算間違いのような形で
不適応を起こす場合がある
その場合は原則もなにもなくて
ただ頭が混乱していると考えていいと思う
そのような場合が圧倒的に多いし
多いのだからむやみに重症になったりはしない
そうでない場合があって
それは現実の場面があまりに難問であるとき
人間は考えることをやめて
過去の行動パターンでやりくりしようとする
精神分析では退行という
脳科学で言えば
新しい行動パターンによって抑制されていた古い行動パターンが
新しい行動パターンでは適応不可能だと判断したときに
使われる
古い行動パターンというのは
一つには自分の経験での過去の行動パターンである
子供時代の行動パターンなどになる
もう一つは進化論的に古い行動パターンのこともあって
それはたとえば哺乳類としての古い行動パターンということになる
それは胎児期の脳の形成という事にもなり
たとえばトランスパーソナルで言われているような
胎児期の記憶とか
出産時の外傷記憶とか
に関係するのかもしれない
もちろん個人の体験として哺乳類の発生の過程は
顕在的記憶にはないのであるが
そして意識を中心として心理学では解釈が難しいのであるが
個体発生のそもそもから考えれば
個体発生は系統発生を反復するのが原則であって
脳もそのようにできていて
上位機能が壊れると下位機能が顕在化することは
原則のとおりである
そのような観点から
(1)精神病理を個体発生の観点から、生活史をさかのぼって検証する
(2)精神病理を進化論的に系統発生的に検証する
この二つの観点は同じものだということができる
ーーーー
古いものが下位にあり
新しいものが上位にある階層構造を考えて
どこかの部分が壊れたときに
そこから上位の機能は失われて
そこから下位の機能は顕在化する
ジャクソニズムを簡単にいえばそういうことになる
目の前にある精神症状は
上位機能の喪失と
下位機能の顕在化の
ふたつの混合である
ーーーー
臨死体験というものがあり
かなり共通した証言をする
なぜだろうかと考えるとき
臨死体験の時には
出産時の記憶を反復するのではないかと
個人的に考えることがある
出産時の記憶は
多かれ少なかれ似ているのだから
臨死体験も非常に似たものになるはずである
上位機能が次々に失われていって
最後に見えるもの
ーーーー
現実の問題に対して不適切な対処をしている場合
それは病気なのかどうか
問題になる
病気というものは
障害に対応する物質的構造変化の病理所見があって
はじめて病気と言うべきである
そのような病理所見がないのに
病気と安易に言うべきではない
しかし
障害概念であれば
本人にとって不都合があると言う観点で語ることができる
さてその場合
心理的な次元のことが原因で混乱が生じるものなのか
あるいは生物学的な次元のことが原因で混乱が生じるものなのか
議論がある
日常体験の延長で言えば
ストレスが引き金となって
抑うつや不安が発生することの方が理解しやすい
しかし実際には
生物学的に病気になる準備がすでにできていて
その上に何かのエピソードがあり
本人としては障害が発生したと自覚できる場合が多いのではないかと私は感じている
疾病の準備性といっていいものは
やはり生物学的なものなのだろう
ストレス脆弱性仮説である
そこにきっかけ、つまり、結晶が析出するきっかけになるような出来事があって
症状は発生する
疾病の準備性(日本語として誠になじまない言葉ではあるが)を自覚することはできないので
それが困ったところだ
コメント