第5章 ヒポクラテス的精神薬理学に向けて v2.0


第5章 ヒポクラテス的精神薬理学に向けて v2.0
—◎ここがポイント◎—
・多くの精神科医は非ヒポクラテス的に仕事をしている。
・医学に対するヒポクラテス的アプローチは単に倫理的観点からのものではなく、むしろヒポク
ラテス的アプローチは病気をどう考えるかの哲学である。
・その哲学によれば、病気は自然の一部であり、治癒もまた自然の一部である。医師の役割は自
然を助け、自然の働きを邪魔しているものを取り除くことである。
・病気は自然に治るか、治癒可能か、治癒不可能かのいずれかである。第一と第三では治療はい
らない。第二で治療が必要である。この3つの鑑別をするのが医学のアートである。
・症状に着目して薬剤を攻撃的に使って治療するのは、ヒポクラテスの病気哲学に反している。
しかし最近の精神薬理学はこの傾向にある。
・ヒポクラテス的精神薬理学には二つのルールがある。ホームズのルール「すべての薬剤は無害
が証明されない限り推定有害である」。オスラーのルール「症状ではなく病気を治せ」。

・この2つのルールに従わないなら、益よりも害が大きい。

5-1 精神薬理学の原則:ヒポクラテス的アプローチの意味するもの
近代医学の偉大なる父 Willam Osler は学生にアドバイスして「最新医学雑誌と古典を読め」と言
っている。医学雑誌で最新の研究成果を知る。古典で視野が広がり普遍的な原理を知ることがで
きる。
精神薬理学の原則は医学の原則に従う。その原則の中にヒポクラテス的アプローチがあるのだが
、しばしば引用されるにもかかわらず、よく誤解されている。
ヒポクラテスの医学の考え方は、他の流派とは違い、病気は自然の一部であり、不自然なもので
はないという考えである。したがって、医学は、自然それ自体が病気を癒すという自然プロセス
と戦うのではなく、自然プロセスそのものである。医師の仕事は自然の働きが治癒に向かうよう
に手助けすることである。薬剤や毒物により自然と戦うよりは、食事療法や運動が用いられる。
ヒポクラテスの考えは、自然が癒し、医師は自然に付き添うだけである。自然が癒し、医師は助
ける。
大部分ではないにしても多くの病気は自然に治る。医師の役割は自然の邪魔をせず、自然を助け
ることである。そこでヒポクラテスは病気を自然に治るもの、治療できるもの、治癒不可能なも
のの3つに分けた。第一と第三では原則として治療は不必要であり、しばしば有害である。第二で
は治療が必要である。医学のアートはこれら三種を鑑別することである。
有名なヒポクラテスの格言「まず害をなすな」は倫理の要約ではない。上記の基本哲学から得ら
れたものである。
私の考えでは多くの医師はヒポクラテスに反する姿勢で仕事をしている。クリニックのドアを
くぐった全員に治療が必要だと考えているようだ。アメリカ精神医学の基礎を作った Benjamin
Rush の考えはこれであり、彼はヒポクラテスの治療哲学を直接に攻撃した。精神疾患を含む全て
の疾患に対して積極的な介入をしようと強く主張し、その方法は瀉血(血を抜く)であった。ヒポク
ラテスのアプローチは中世から近代にかけて長く忘れられていたのだが、合衆国では Oliver
Wendell Holmes と William Osler が、19世紀の後半に復活させた。
彼らの著作から私は二つのルールを引き出した。私はヒポクラテス的精神薬理学を医師に実践し
て欲しいと考えている。(表5.1)
—–表5.1 ヒポクラテス的精神薬理学——
ホームズのルール:薬剤は無害が証明されるまでは推定有害である。

オスラーのルール:症状ではなく病気を治せ。

5-2 ホームズのルール
第一のルールは医師で作家であったホームズのもので1861年に書かれている。
推定無罪の原則が法律の世界に存在するように医学の世界でも重要である。人は有罪であると証
明されない限り無罪であると推定される。同様に薬剤は無害だと証明されない限りいつでも有害
だと推定されるべきである。薬剤は常に直接有害であって、ときに間接的に有益である。この推
定有害の原則が確立されたならば、薬剤は益よりも害が多いという話を聞くことは少なくなるは
ずだろう。
アヘンは捨てたほうがいい。神が処方したものとはいえ、木綿畑に赤いケシの花が咲いているの
をしばしば目にする。空腹のときに食料が与えられるように、痛みがあるときにアヘンが与えら
れると考えるとしたら、間違いだろう。
我々には活用法も分からない、また活用する必要もないような特効薬は捨てたほうがいい。
ワインは捨てたほうがいい。食べ物であるが麻酔作用がある。
私は固く信じるが、現在使われているすべての薬剤は海の底に沈めたほうがいい。それが人類の
ためだ。魚には災難だが。
ホームズのルールによれば、治療は、推定有罪を覆すだけの有効性が実証的に証明されなければ
ならない。医師がこのルールに従うなら、最低でもある程度の有効性が証明されていない薬剤を
使用することはないはずだろう。オスラーが書いているように、全ての薬剤は毒物である。適用
を工夫して用量を工夫するから有効になるのである。従ってどんな薬剤も使用前に推定有罪と考
えないといけない。有害はある程度前提としているので、無害を証明するのではなくて、有害の
程度と有効性の程度を証明しなければならない。危険と利益の計算は危険の側からはじめるので
はなくて利益の側からはじめるべきである。そうでなければ、我々は「ガバペンチン症候群」に
陥る。人々に安全であるが無効な薬を与える羽目になる。(あるいは、広く使用されている薬だが
、ほんの少数の場合にのみ有効なもの。)
たとえば、双極性障害の場合に抗うつ薬を使うとき、医師はホームズのルールをひどく破って
いる。20年間にわたる無作為試験の結果は双極性障害におけるうつ病エエピソードを予防するに
は抗うつ薬は無効であると示されているのに、医師は抗うつ薬を長期間広く使っている。最近
のデータでは新世代の抗うつ薬でも同様のことが言える。
抗うつ薬をやめる理由が欲しいと医師はしばしば言うので私は驚く。ヒポクラテス的医学を実
践し、ホームズのルールに従うならば、薬剤を中止する理由ではなく、使い始める理由が欲しい
はずだ。
薬剤が無効かつ非安全と証明されない限りは使ってよいのではなく、有効かつ安全でなければ使
ってはいけないのである。抗うつ薬の使用に関しては我々は昔に戻った方がいい。
5-3 オスラーのルール
第二のルールは近代医学の父、William Osler が1895年に書いた言葉である。
解剖学や生理学をよく知らなければ優れた外科医になることはできない。生理学と化学を知らな
ければ内科医は目的を達成できないし、病気について正確な知識を蓄えることもできない。お
もちゃの鉄砲を撃つような薬理学では、時に疾患を撃ち、時に患者を撃つようなもので、自分が
何をしているのかさえ分からない。
オスラーが強調しているように、治療についてあれこれ試す前に病気について知る必要がある。
オスラーのルールは(背景にある病気の理解を前提として)症候群に対する治療をすることであり、
症状を治療するのではない。症状は治療が必要なものそのものではない。症状は病気(あるいは
診断)を指し示すサインである。病気を診断し治療するのである。医師がこのルールに従うなら、
複数の症状に対して複数の薬を使うことはなくなる。それが理想であるが、現状では双極性障害
の治療では、うつ病性症状に対して抗うつ薬が、躁病性症状に対して抗精神病薬が不安症状に抗
不安薬が、不眠に対して睡眠薬が、気分のむらに対しては気分安定薬が用いられることがしばし
ばである。こうした、症状中心のアプローチは前科学的であり、現代的とは言えず19世紀的で
あり、反ヒポクラテス的である。
オスラーのアプローチは症状ではなく診断に注目したもので、たとえば双極性障害と診断し、気
分安定剤を選び、なるべく多剤併用はせず、と言った具合に、疾患まるごとをただ一つの分類の
治療で治す。その場合の疾患まるごととは急性大うつ病、急性躁病、気分エピソードの予防など
を含めた一連のものである。
その病気についてよく分かっていない場合、または病気が存在しない場合、治療は症状をターゲ
ットにしたものとなり、たとえば傷にバンドエイドを貼るようなもので、そのような広範な処方
をしていると薬物療法のリスク・ベネフィット比は悪化する。しかしながら双極性障害の場合は
そうではない。双極性障害の診断はローマ時代の医師 Arateus of Cappadocia (紀元2世紀)以来入念
に記述されてきた。双極性障害の生物学的基礎は合理的によく確立されている。
このことは症状を緩和するためだけに薬剤を使用してはならないと言うのではない。この症状
をターゲットとする医療はヒポクラテスの考えに反するものであるが、症状の即決緩和のために
短期的にのみしぶしぶ行われるべきである。子供も高齢者も、精神科では病気がよく分かってい
ないので、症状をターゲットとした多剤併用療法がはびこっている。多くの精神科医はいまはこ
の現状を受け入れているが、オスラーのルールによって再考してはどうだろう。
5-4 まとめ
ドイツの偉大な精神科医カール・ヤスパース(彼はジークムント・フロイトやエミール・クレペリ
ンよりも偉大な精神医学の思想家であると私は思う)の考えを噛み砕いて言うと、我々の間違いや
論争の根本は科学そのものや科学研究に由来しているのではなく、我々の信念や思考に原因が
ある。気分障害をよく診断治療しようとしてこの本を選んだ読者は、精神科治療についての考え
の前提・大枠について第一に考え直さない限りは、あまり利益が得られないかもしれない。
過去にはあまりにも薬物を遠ざけてきた。精神分析が解決であると見なされた。現在では薬剤を
使いすぎていると思う。我々が実践している症状中心の精神薬理学は19世紀のものだ。
我々がしなければならないことを明確にする必要がある。第一に病気に対して処方すべきで、症
状に対して処方すべきではない。病気に対して処方するといっても、すべての病気に対して出来
るわけでもない。惰性で処方してはいけない。リスクを遥かにしのぐ利益の証拠があるときにの
み処方すべきだ。この基本哲学で研究やデータに向かえば科学的ヒポクラテス的精神薬理学に
至る。そうでなければ、私の考えでは、科学とデータは医師と患者によって気まぐれにねじ曲げ
られ、折衷的寄せ集めになってしまう。現代の精神医学がまさにそれだ。

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