自意識-1.2.3.4

自意識-1
*
「ねえねえ教えてよ。それってどういう意味?」とアリスは尋ねた。「君は賢そうだから教えて
あげよう。」と、ハンプティーダンプティーはとても嬉しそうにいった。「どうしてもわからな
いこと、ってのはしょうがないんだ。その話題はもうたくさんだっていうことだよ。だから、君
がこれからどうするつもりなのか話してくれてもいいし、ほら、残りの人生ずっとここにとどま
っているつもりじゃないんだろう。 」「鏡の国のアリス」ルイス・キャロル(Lewis Carroll)
*
結局、本書の主張とは何だったのだろうか。十九章をより分かりやすくするため、最終章では、
架空のジャーナリストから受けたインタヴューという形式で、本書の趣旨をまとめてみたい。意
識について考えていると、現在の我々の理解では答えるのが難しいが、興味深い数多くの問題に
直面する。どうやって脳というシステムが意味を扱うことができるのか。動物に意識があるとす
れば、動物実験は倫理的に許されるのか。我々に自由意志はあるのか。機械やロボットは最終的
に意識を持つようになるのか、などなど疑問は尽きない。ここでは私の憶測を交えてこれらの疑
問に答えていきたいと思う。
*
ジャーナリスト:まず最初に、コッホ教授の採る、「意識の探求」への戦略を一言でお願いし
ます。
*
コッホ:第一に、私は、我々に意識があることは、否定しようのない事実であり、どうやって意
識が脳から生じてくるのかを、我々は説明すべきだと考えています。主観、感覚、質感、クオ
リア、意識、現象としての経験、どんな言葉を使うかは自由ですが、そういうものを、我々は確
実に事実として経験している。なんらかの脳の処理過程からこの意識は生じてくる。我々にはこ
ういう意識的な経験があるから、人生が彩られたものになっているんです。大平洋へ沈む深い太
陽の深い赤、バラの素晴らしい香り、犬が虐待されるのを見たときにこみ上げてくる激怒、スペ
ースシャトル・チャレンジャー号が爆発したのを生中継のテレビで見たときの鮮明な記憶。こ
ういった主観的な感覚が、どのようにして脳という物理的なシステムから生じてくるのかを説明
するのが、現代科学の役割なんです。それができないようでは、科学のもたらす世界観なんて、
本当に限られたものにすぎないでしょう。
*
私の第二の主張は、哲学者が論じている難しい問題は取り敢えず、おいておこう、無視しよう、
ってことなんです。特に難しいのは、何故、何かを見たり聞いたりすると、それぞれに特有の感
覚を我々は感じるのかということなんです。自分がいつものように自分であると感じるのはどう
してなのか、非常に難しい問題ですね。そういうことに捕らわれ過ぎずに、ひとまず、科学的に
取り組める問題に集中しましょう、といっているのです。意識が変化するのにつれてぴったりと
活動を変化させるようなニューロン(神経細胞)、そういう意識と相関のあるニューロ
ン(Neural Correlates of Consciousness)をNCCと私は呼んでいますが、そういうニューロン、
もしくは意識と相関するような分子を明らかにすることに集中しよう、というのが戦略なんです
。具体的に言うと、ある特定の意識的知覚を引き起こすために十分な最小限のニューロン集団の
仕組みとは一体何かを明らかにすることを目標としています。最近の脳科学における技術の進展
には目を見張るものがあります。哺乳類における遺伝子工学、サルの脳内から何百個ものニュー
ロンを同時に記録する技術、生きた人の脳を輪切りにして画像化するイメージング技術。これら
の技術を持ってすれば、NCCの探索は現実的な目標といえるでしょう。問題の定義もはっきりし
ているので、一貫して、科学的な成果が出せるはずです。
*
ジャーナリスト:NCCが見つかれば、意識にまつわる謎は解決されるということですか?
*
コッホ:いやいや、そんなに事は簡単ではない。なぜ、どんな状況において、ある種の非常に複
雑な生命体が、主観を持って感覚を経験するようになるのか。なぜそれぞれの感覚には特有の感
じられ方が決まっているのか。こういう問いに対しても、最終的に、原理的な説明ができるよう
にならなければ、意識の謎は解決されたことにはならないんです。人類は二千年間もこれらの謎
を解こうとして、もがいてきたんです。実に「難しい」問題ですよ、これは。NCCが見つかった
としても、それは始まりにしか過ぎないでしょうね。謎を解くには程遠い。NCCの発見が意識の
探求について果たす役割という意味では、DNAの発見と生命にまつわる謎との関係がもしかする
と良い例になるかもしれません。DNAが二重螺旋構造を持っていることが解明されたことで、ど
れくらい遺伝の仕組み、すなわち、分子がどうやって複製コピーを作っているかが明らかになっ
たか思い出してください。糖とリン酸、そしてアミノ基でできた二本の鎖が、弱い水素結合によ
って相補的な螺旋構造を持っていることが発見されるとすぐに、遺伝のメカニズムが提唱されま
した。遺伝情報はどう表現されているか、どう複製されるのか、そしてどう次の世代へと受け継
がれていくのか、一気に遺伝の謎、生命の謎を解く鍵が示されたんです。遺伝のメカニズムは、
DNA分子の構造を知らなかった、それ以前の世代の化学者や生物学者には、絶対に思いもつか
なかったはずです。同じようなことが、意識の謎についても起きるかもしれません。ある特定の
意識的知覚が、どの脳部位にあるニューロン集団によって生成されるのか、そのニューロン集団
はどの部位へ出力を送って、どこから入力を受け取るのか、どんな発火パターンを示すのか、生
後から成体になるまでの発達過程ではどうなっているのか。これらが分かれば、意識の完全な理
論へとつながるブレイクスルーをもたらすかもしれません。
*
ジャーナリスト:というのが、理想というか、夢ですよね。
*
コッホ:たしかに現時点では夢かもしれません。だけど、NCCを探すよりも信頼のおける代替策
はないんです。論理的に議論したり、自分自身の意識経験をじっと内省したりしても無駄でし
ょう。二百年前までは、科学実験が無かったので、学者達はそうやって意識の謎に取り組んでき
たわけですが、経験から言うと、そんな方法では意識の謎にはとうてい太刀打ちできない。頭の
中で哲学者のようにごちゃごちゃ考えていたって、理屈で意識の謎が解けるわけがない。椅子
に座って、じっくり考えて答えが出るほど、甘くない、脳はあまりにも複雑なんです。進化の過
程で起きた、ものすごい回数起きたでたらめの出来事や偶発的な出来事を通じて、現在の複雑な
脳が できあがってきたから、理屈が通用しない部分すらあるんです。むしろ今は、観察事実を積
み上げることが必要でしょう。ニューロンから伸びる軸索の結合パターンはどれ程精密なのか。
たくさんのニューロンが同時に発火することは意識が生じるのに重要なのか。皮質と視床の間を
行き来しているフィードバック経路は、意識に重要なのか。NCCを構成するニューロンは特定の
種類のニューロンなのか。こういう仮説が正しいかどうかを突き止めることの方がはるかに大事
なんです。
*
ジャーナリスト:なるほど。ということは、科学的に意識の理論を構築していく上で、哲学者に
何か役割はあるのでしょうか?
*
コッホ:歴史を振り返ってみると、哲学が、現実世界に関する疑問に対して、白黒はっきりつけ
たという、目覚しい結果は見られません。宇宙はどこからきてどうなって今まであるのか、生命
はどうやって生まれたのか、精神はどんな性質を持っているのか、生まれが大事なのか、それと
も育ちのほうが大事なのか。これらの問題になどに哲学が明確な答えを出した試しはない。ただ
、哲学が問題解決には不向きだ、と声高に指摘するような失礼な学者は滅多にいないから、そう
いうことこの事実をめったに耳にすることがない。一方で、哲学者が問いを立てることに秀でて
いるというのは確かでしょう。哲学者は科学者には思いつかないような視点でものを見ています
。意識の問題には「難しい・ハード」なものと「簡単・イージー」なものとがあるという観念、
現象としての意識とアクセス意識の区別、意識の「内容」と意識「そのもの」の識別、意識は何
故統一されているのか、意識が生じるための条件とは何か、などは科学者がもっと考えるべき重
要な問題です。まとめると、哲学者の投げかける問いには注目し、彼らの提示する答えにまどわ
されないようにするのが一番良いってことです。そのいい例が哲学者のいう「ゾンビ」でしょう

*
ジャーナリスト:「ゾンビ」って、腕をだらっとのばして歩き回る呪われた死人のことですか?
*
コッホ:いや、ちょっと違う。見かけ上は、私やあなたと全く変わらないが、まったく意識がな
い架空の生き物のことを哲学者は「ゾンビ」と呼んでいるんです。チャルマーズがこの魂のない
ゾンビを議論に使って、今までに知られている宇宙の物理法則からは、意識がどうして生じるの
かを説明できない、と主張している。物理学、生物学、心理学の知識は、主観的経験がこの宇宙
にいかにして現われてくるのか理解するのに、これっぽっちも役に立たないという主張だ。何か
それ以上のものが必要だと。この奇怪な架空の生き物、ゾンビを使った哲学的な議論が、私には
非常に役に立つ概念だとは思えない。しかし、哲学者のゾンビには程遠いが、それに似たような
状況が現実にもあるんです。フランシスと私はこの取っ付きやすい用語を使って、一連の、それ
自体は、意識にのぼらない素早いステレオタイプの感覚と運動の連合した行動を示すことにしま
した。古典的な代表例は、運動を制御することです。走りたいと思えば、何も考えず、ただ単に
、[走る]だけでしょう? 体制感覚器とニューロンと筋骨格系があとはなんとかしてくれる。た
だそれだけであなたはどんどん進んでいく。自分がどうやってそれぞれの筋肉をどう動かしてい
るのか内省的に振り返ろうととしても、全く見当もつかないでしょう。このように一見単純な行
動に潜んだ、驚くまでに複雑な計算と運動が直接意識にのぼることはない。
*
ジャーナリスト: ではゾンビ行動というのは反射行動なのですね。ただし、より複雑な。
*
コッホ:まさにそのとおり。大脳も含めた反射ということです。水の入ったグラスに手を伸ばす
。そのとき、グラスを握るため手が自動的に開く。そういった行動は一種のゾンビ行動で、腕と
手を制御するために視覚入力を必要とする。これらの行動は1日に何千回と行われている。もち
ろん、あなたはグラスを見ることができるが、それはまた別の神経系での神経活動が意識的に知
覚されるからです。
*
ジャーナリスト:ということは、健常者の中にも、無意識のゾンビ・システムと意識システムが
共存しているということですか?
*
コッホ:まさにそういうことです。毎日の行動のうち、大部分がゾンビ・システムによって制御
されています。仕事にいく時の運転はまさに自動的だし、目を動かすのも、歯を磨くのも、靴ひ
もを結ぶのも、同僚に会ったときに挨拶するのも、その他の色んな日常生活における行動は、み
んなゾンビ・システムがコントロールしているのです。ロッククライミング、ダンス、空手、テ
ニスなどの複雑な行動でも、十分に訓練を積んだ後では、意識せずに、無心でやると一番うまく
いく。どれか特定のひとつのアクションについて考え過ぎると、かえって滑らかな運動に干渉し
てしてうまくいかない。
*ゾンビ・システムは。原則として、これまでの知識で解釈できるわけです。神経細胞で構築でき
ると思う。またたとえば、それと等価なものをコンピューターで構築することもできそうだ。つ
まりは、知覚→脳・処理→運動→知覚→以下ループ、という循環をつくればよいだけで、脳・処
理の部分についても、ジャクソニスム的な原則を適用すれば、だいたいは説明がつくように思う
。説明がつかないのが、「主観的体験」であり、「自意識」である。「自分は今経験している」
と感覚すること、これがどのようにして生成されるのかが問題である。しかし手がかりがないわ
けではない。病気の中には、まさに、こうした、「主観的体験」「自意識」の部分が障害を受け
るものがあり、そこでは、自意識の病理が展開される。完璧なモデルはまだないが、不完全な萌
芽的モデルならば、提示できる。
ジャーナリスト:そんなにゾンビ・システムが効率的ならば、そもそも、なぜ意識なんて必要な
のでしょうか?どうして私はゾンビではないのでしょうか?
*こういうことも思考の上では楽しいが、必要も何も、実際にあるのだと言いたい。
コッホ:どうしてあなたがゾンビでありえないのかについて、私には論理的な理由はわかりま
せん。でも、全く感覚のない人生というのはそうとう退屈でしょうね。(そもそも、退屈という
感覚さえもゾンビにはないのだろうけど。)しかし、この惑星の進化はちがう方向へ向かったわ
けです。非常に単純な生物がゾンビ・システムだけから成り立っているというのはあり得る話だ
。だから、カタツムリや回虫にいたっては何も感じていないかもしれない。しかし哺乳類のよ
うに、様々な種類の感覚器からの膨大な入力を受け取り、そして複雑な行動を生み出すことので
きる効果器を備えた動物にとっては、あらゆる可能な入力と出力の組み合わせそれぞれに対して
ゾンビ・システムを用意しておくというのはあまりにコストがかかる。脳が大きくなり過ぎてし
まう。実際、進化の過程では、この問題は別の方法で対処した。予測していなかった出来事に対
処したり、未来の計画を立てられる、ずっと強力で融通の効くシステムを作り上げた。NCCはあ
る環境の選択された関心のある部分、すなわち、あなたがいま現時点で認識している物事を、コ
ンパクトに表象し、この情報を脳における計画の段階にアクセスできるようにしている。このた
めには、なんらかの形で、数秒にわたるような即時記憶が必要とされる。コンピュータ用語では
、現在の意識の内容というのはキャッシュメモリの状態に対応する。意識の流れが、視覚知覚、
記憶、いま聞こえている声へと不規則に行き来するのにあわせて、そのキャッシュメモリの内容
も変動する。
*「未来の計画」には疑問。
*「進化論的には、自意識は生存可能性を高めるはずだ」なんていう議論も、意識のメカニズムそ
のものには関係ないのだと思う。何故その方向に進化したかを説明はするだろうが、そんなこ
とは、事実がわかってからでいいだろう。
ジャーナリスト:なるほど。意識の機能というのは、自動的な対応方法を用意するのが難しいよ
うな状況を扱うことだということですね。もっともらしく聞こえますが、なぜこれが主観的感覚
を伴うことになるのでしょうか?
*
コッホ:確かに難しい問題はそこだ。現時点では、なぜ神経活動が感覚を引き起こすのかを説明
できる合理的な仮説はない。もっと正確に言うと、色々な提案はあるけれども、どれも納得がい
くものではないし、広く支持されているものもない。しかし、フランシスと私は「意味」という
ものが決定的に重要な役割を果たしているのではないかと思っている。
*
ジャーナリスト:言葉の「意味」ですか?
*
コッホ:いや、言語的な意味ではない。私が感じたり、見たり、聞いたりする世界にある物体
は意味のないシンボルではなく、豊富な連想を伴っている。磁器のカップの青の色合いは子供の
頃の記憶を喚び起こす。そのカップを掴んだり、その中にお茶をそそいだりすることができると
いうことを私は知っている。落としたら、粉々に壊れてしまうこと。これらの連想が明示的であ
る必要はない。それらの連想は、生きてきた期間の経験を通じて行われてきた、外世界との数え
きれないほど感覚̶運動の相互作用から成り立っている。こういった捉えどころのない「意味」は
、磁器のコップを表象しているニューロンと、他の概念を表しているニューロンとの間の、入力
と出力両方においての、シナプスの相互作用に対応している。このような膨大な量の情報が、コ
ップを知覚する時の「質感クオリア」という形で、簡潔に記号化されている。これが我々の「経験
」の正体なのです。この問題はさておき、実証されない推測ばかりで何百年も困難につきあたって
いたこの分野で重要なことは、我々の枠組みが操作上の意識のテストを提供しているというこ
とだ。ゾンビ・エージェントは現時点の情報だけを扱うので、短期記憶を必要としない。例えば
、差し伸べられた手をみて、自分の手を伸ばし握手をする。このとき、差し伸べられた手を見て
から自分の手を伸ばすまでに、ちょっとした遅れを課されると、ゾンビ・エージェントはすでに
役に立たなくなる。このような状況はゾンビ・エージェントの守備範囲外であって、こういう状
況を扱うために進化してきたのは、より強力な(ただし作用するのに時間がかかる)意識システ
ムなのだ。こういったゾンビ・システムにはできないが、意識システムにはできる行動を基に
して、「意識テスト」とでも呼べるような、簡単な操作的なテストを考えられる。このテストは
主観的経験を容易に伝えられない動物、赤ん坊、患者などに、意識があるかを試すことができる
。つまり、直感的な行動を抑制した後に、数秒遅れて反応を起こすというような選択を動物にさ
せる。もし、その生物がそれほど学習を必要とせずにそうした非直感的な遅れた行動をとれるこ
とができれば、その動物は計画を立てるのに関連した機能が備わっていると考えられる。少なく
とも人間においては、計画に関わる仕組みと意識とは密接に繋がっている。よって、その動物は
何らかの意識を持っている可能性が高いと考えられる。逆に、NCCが破壊あるいは不活化され
れば、数秒の遅れを跨ぐような行動をとることはできなくなるだろう。
*「正体」と言っているが、正体は何かわかっていない。
*「意識テスト」はおもしろそうだ。
ジャーナリスト:しかしこれでは、意識の厳格な定義とは言えないのではないでしょうか 。
*
コッホ:まだゲームは始まったばかりだから、現時点で正式な定義を立てるには早すぎる。一九
五〇年代のことを思い起こしてほしい。もし分子生物学者たちが「遺伝子」の正確な定義は何か
とあれこれ悩んでいたら、ここまで分子生物学は進んだだろうか?現在でさえ、「遺伝子」を正
確に定義するのはそれほど簡単ではない。我々の意識の遅れテストを、チューリングテストのよ
うなものだと考えて欲しい。ただし、チューリングテストは「知性」があるかないかをテストす
るが、遅れテストは「意識」の有無を明らかにするという違いがある。科学において重要なのは
、遅れテストが、夢遊病者、サル、マウス、ハエに応用できることだ。
*
ジャーナリスト:ちょっと待って下さい。虫にも意識があるかもしれないってことですか?
*
コッホ:意識が可能となるためには、自分自身を振り返るために、言語と自己の表象が必要だと
考えている学者は多い。確かに、人間が自分自身について再帰的に考えることができるというこ
とに疑いの余地はないが、この機能は大昔に進化したより基礎的な生物システムに最後に付け加
えられた機能に過ぎない。意識は非常に原始的な感覚と結びついている可能性がある。赤い色を
みたり、痛みを感じたりする時に、言語だとか高度に発達した自己だとかいう観念が必要だろ
うか? 重度の自閉症の子供達やひどい自己妄想や離人症症候群を持った患者ですら、世界を見て
、聞いて、嗅いでいる。これらの言語や自己の表象が著しく侵された人々も基礎的な知覚的意識
は正常なのだ。
*そうですね。離人症の人も、忙しいときはそれなりにやっています。自省する瞬間があると、自
分の感覚がおかしいと意識し始めて苦しいといいます。
言語を持った動物が進化の過程で現れてくる以前に、ある種の動物は意識を持っていた。私の研
究対象の意識とは、そういう類の意識だが、となると、意識が進化のどの過程で生まれてきたの
かが気になるところだ。さらに言えば、Ur‐NCC(NCCの原型)は、いつごろ地球上に現われた
のだろう? 哺乳動物は、我々人類と進化上枝分かれしてからそう時間も経っていないし、脳の構
造も我々のものと良く似ている。だから、サル、イヌ、ネコ、は少なくとも見たり、聞いたり、
臭いを嗅ぐという我々と同じような経験・質感を持っていてもおかしくはないだろう。
*そうですね。
ジャーナリスト:マウスはどうでしょうか? 生物学や医学の研究で最も頻繁に使われている哺乳
動物ですよね。
*
コッホ:マウスを使うと、新しい遺伝子を挿入したり、既存の遺伝子をノックアウトするとなど
という、ゲノムの操作が他の哺乳動物と比べると簡単なんです。だからマウスはモデル動物とし
て非常に有用だ。マウスに遅れテストを実験的に適用することは実際可能なので、分子生物学の
手法と組み合わせて、NCCの基礎を遺伝子操作を使って神経科学が研究するという強力なモデル
になるだろう。私の研究室は他の研究室と共同で、古典的なパブロフの条件付けパラダイムを用
いて、注意と「気づきアウェアネス」のマウス・モデルを開発しようとしている。
*
ジャーナリスト:今、意識コンシャスネスの代わりに気づきアウェアネスとおっしゃいましたね
。それらは別の概念なのですか?
*
コッホ:いや、同じことです。慣習的にそういう実験では「気づきアウェアネス」と言うこと
になってるんです。意識(Consciousness)が、我々研究者の間では、「Cワード」と呼ばれるこ
ともあるように、研究者の中には強い嫌悪を示す人たちがいる。したがって、研究費を申請する
時やや論文を投稿するときには別の言葉を使ったほうがいい。気づき(Awareness)という単語
はそういうレーダーをたいていくぐり抜けるようだ。
動物の意識について続けましょう。意識がマウスで見つかるならば、そこで立ち止まる必要は
ない。哺乳動物で止まる必要すらない。大脳皮質が無ければ意識は生まれるはずは無いと、勝
手に、大脳に対して狂信的である必要もない。大脳やその附随構造が知覚意識に必要だとは実証
されていないんです。イカも意識を持っているんじゃないか?ハチはどうか? ハチは百万個も
のニューロンをもっており、彼らは非常に複雑な行動を取ることが知られている。視覚的な刺激
を覚えておいて、答えるというパターンマッチングをはじめ、色々なことができる。私が知る
限り、数十万個のニューロンがあれば、見たり、嗅いだり、痛みを感じたりするのに十分かもし
れない!ショウジョウバエすら意識を持っている可能性はある。恐らく、彼らの意識は非常に限
られたものだろう。現時点では分かっていないだけの話だ。
*
ジャーナリスト:これも検証できない推測のように私には思えますが。
*
コッホ:現時点では、確かにそうです。しかし、操作的なテストによってこれらの推測を実験で
確かめることができる。これは非常に新しいことなのです。我々はつい最近まで、そういう意識
のリトマス紙、なんて考えもつかなかったのだ。
*
ジャーナリスト:遅れテストは、機械が意識を持つかを確かめるのに応用できるのでしょうか?
*
コッホ:私はカリフォルニア工科大学の生物学部の教授でもあり、応用科学工学部の教授でもあ
るから、もちろん人工意識についても考えている。神経生物学への類似から考えるに、遅れテス
トで試されるような能力を持った生命体(機械も含む)は、感覚を持っている可能性があると
思う。そういう生命体は、本能的な行動を抑えて、なんらかの方法で記号の意味を表現できなけ
ればいけない。そういう意味で、一見、世界中のコンピューターを繋いでいるインターネットは
非常に面白い例だ。ノードの役割をする無数のコンピュータが作り出す、分散型で、かつ、高度
に相互連結したネットワークは、新らしいシステムといえる。インターネットには、多くのコ
ンピュータ同士でファイルを交換プログラムや、千台以上のパソコンに分散させても解けないよ
うな数学的に厄介な問題を解決するアルゴリズムがあり、非常に複雑な行動を取っているかのよ
うに思える。ところが、このインターネットで繋がったパソコンの集合体と、大脳皮質中で互い
に興奮・抑制をしあっているニューロンの連合との間には、ほとんど関係性が見られない。特に
神経系と異なるのは、ワールド・ワイド・ウェブ(WWW)には、ある一つの、統一された目的を
達成するための行動みたいなものが見られないことだ。今のところ、ソフトウェアに元々設計さ
れていなかった、目的のある大規模な振る舞いが自発的に出現したということは起こっていない
。そういう振る舞いが、自発的に現れてこない限り、インターネットの意識について話しても意
味がない。今のところ、ネットワークコンピューターが、勝手に、電力量の割り当て制御や、飛
行機の交通網の整理とか、金融市場の操作などを、作り手の意図とは独立に為された試しがない
。ただし、自分の行動を完全に自分でコントロールするようなコンピューター・ウィルスやワー
ムの類が出現すると、こういう現在の状況が未来永劫変わらないとは言えなくなってくる。
*「本能的な行動を抑えて、」別の行動をとることは、別段自意識がなくても、可能なことである

*「なんらかの方法で記号の意味を表現できなければいけない」というが、このことも、本質的な
要請ではない。
ジャーナリスト:反射のような行動をもったロボットに意識は宿ると思いますか?障害物を避ける
ことができて、電池切れにならないように自分の電力をチェックし、必要になればどこかへ充電
しにいく。そういう能力に加えて、汎用性を持った計画を立てるためのモジュールが備わった
ロボットには、意識があると言えると思いますか?
*結局「意識がある」という言葉の意味に還元される。
コッホ:そうですねえ。例えば、そのプラニング・モジュールが非常に強力だとしましょう。自
分の身体のイメージ、そしてデータから検索された現在の状況に関する情報を含めて、ロボット
自身の周囲の現在環境をセンサーを通して感覚的に表象が可能だとする。その結果、そのロボッ
トが、単独で目的のある振る舞いを生成することができる。さらに、そのロボット、センサーか
らの情報を将来に生じる損益と結び付けて、自分の行動を律することができる、とここまで仮定
しよう。そういうロボットは、例えば、部屋の温度が高くなってくれば、その状況が機械の供給
電圧の低下を引き起こすかもしれないので、ロボットはなんとしてもその状況を避けなければな
らない、ということもわかっている。ここまでくると、「高温」というのはもう、単なる抽象的
な数字ではなく、ロボットにとっては、安寧に密接に関わる重要な動機付けの要因と考えられる
。そのようなロボットには、ひょっとしたら、あるレベルの原意識とでもいうものを持っている
かもしれない。
*
ジャーナリスト:なんだか、非常に原始的な「意味」とでも言うべきものに聞こえてきますね。
*
コッホ: 確かにそうです。しかし、我々人間も、生まれて間もない時点では、恐らく、痛みとか
喜びくらいしか意識できていないでしょう。しかし、「意味」には、こういった原始的なもの以
外の起源がある。ロボットで言えば、プログラマーが「これは正しい、それは間違い」と教える
ことなしに、教師なしで学習するアルゴリズムで、知覚と運動をつなぐ表象を学んでいくところ
を想像してみてください。道を歩こうとして、つまずいたり、よろめいたりしながら、試行錯誤
を通して、自分の行動が予測可能な結果に結びつくことを学んでいく。この時、同時進行で、よ
り抽象的な表象も構築されていくだろう。例えば、視覚と聴覚からの入力を比べて、ある種の唇
の動きが、特定の発音パターンと頻繁に入力されることが多いことなどを学んでいく。ここでは
、「表象が明示的で、はっきりしたものになるのにつれて、その表象によって表される概念がよ
り高度に意図的になっていく」ということが重要だ。ロボットをデザインしている研究者が、も
し人間の幼年期の発育過程と同じような過程をたどるロボットを造ることができれば、こうい
う「意味」というものをより深く研究していくのも可能になるかもしれない。
*人間の発達を考えれば一番分かり易い。精子と卵子から始まって、成人になるまで、どこかで段
差があるわけではないのだ。連続しているはずだ。したがって、ニューロンネットワークで説明
できるはずだ。
ジャーナリスト:まるで、映画「2001年宇宙の旅」にでてくる偏執病のコンピュータHALの世界
ですね!でも、ロボットが「意味」を持つかどうかについてはわかりましたが、まだ私の最初の
質問、ロボットの意識に対して答えてもらっていません。コッホ教授が提唱する遅れテストは
、意識を持った「ふり」をしているだけのロボットと、本当に意識を持った機械を区別できるの
でしょうか?
*できないと思う。「意識を持ったふりができる」ということは、意識を持っているということだ
と私はおもう。日本語がわかるふりができる犬は、結局、日本語がわかっているのだと私は思う
。その場合も、「日本語がわかるとはどういうことか」というところに問題は還元されるようだ

*今日、出そうなパチンコ台を、どう考えても非合理的としか思えない方法で判断しているおば
あちゃんの場合、結果として、あてているという「相関」があれば、それは尊重するしかない。因
果関係として認定するのは早いとしても。(これは適切でないたとえかもしれない。)
コッホ:遅れテストが生物の意識システムと反射システムを区別するからといって、同じことが
ロボットにもあてはまるとは限らない。「我々人間には意識がある。よって、人間に似ている動
物ほど、感覚を持っている可能性は高い」という議論に基づいて、進化過程、行動パターン、脳
構造などがどれだけ人類と類似しているかを考慮して、ある程度の動物種は感覚を持っていると
仮定するのは納得がいくでしょう。けれども、デザインや歴史的な起源、形に至るまでが根本的
に異なるロボットについては、そういう議論を前提に意識を考えることはできない。
*
ジャーナリスト:それでは、この話題はひとまずおいておいて、もう一度、これまでに発展させ
てきたクリック&コッホの視覚意識に相関する神経活動(NCC)仮説についての考えをお聞せ下
さい。それはどのような仮説だったのでしょうか?
*
コッホ:一九九〇年に、我々は意識についての初めて最初の論文を発表しました。その論文では
、複数の脳部位における神経活動の動的な「結び付け」が、ある種の視覚意識には必要だ、と強
く主張した。
*
ジャーナリスト:ちょっとまって下さい。「結び付け」とは何のことですか?
*
コッホ: 赤いフェラーリがそばを過ぎ去っていく場面を想像して下さい。フェラーリは脳の全体
にわたる無数の場所で神経活動を引き起こす。活動は色々な場所で起きるにもかかわらず、あな
たが意識するのは、単一の知覚だ。自動車の形をした赤い物体が、ある方角に向かって、激しい
音を立てて走り抜けていく。この統合された知覚は、運動をコードしているニューロンの活動、
赤を表わすニューロンの活動、あるいは形や音や他のものを表わすニューロンの活動、これらを
なんらかの方法で「結び付け」た結果、生じるものだ。もう一つの結び付け問題は、フェラーリの
傍に犬を散歩させている人がいる場合に生じる。その犬を散歩させている人は、フェラーリと混
同されないように、脳内に表現されて、別々に結び付けられなければならない。
*
我々の一九九〇年の論文発表時には、ヴォルフ・ジンガーとラインハート・エックホルン、それ
ぞれが率いる二つのドイツのグループが、猫の視覚皮質のニューロンがある条件下で、それらの
発火パターンを同期させるということを発見した。この同期発火は周期的に起こるため、有名な
四十ヘルツの振動につながる。私たちは、この四十ヘルツの振動こそが、意識が起きたことを示
すニューロンの「目印」みたいなものだと主張したんです。
*
ジャーナリスト: ニューロンの同期と四十ヘルツの振動については、現時点ではコッホ教授はどの
ように考えているんでしょうか?その後、どんな証拠が得られましたか?
*
コッホ:神経科学界の間では、振動と同期についての見解は、当時も今も、激しく対立し、深い
分裂がみられています。ある科学論文雑誌で振動や同期には機能があって、それが意識に関連し
ているという仮説を支持する証拠が公表されたかと思うと、同じ雑誌のすぐ次の号では、その内
容を元も子もないほどに笑い者にするような論文が発表される。しかし、信頼できる証拠が全く
無い低温核融合とは違って、ニューロンが二十ヘルツから七十ヘルツの周期で振動する活動する
こと、そしてニューロンは同期して発火すること、これらの神経活動現象が「存在する」ことに
関しては疑いの余地が無い。それでも、異論反論の尽きない問題は数多く残っている。今のと
ころ、我々の解釈では、同期発火や振動には、ニューロン連合を形作るのを助けるという機能が
あるようだ。ある知覚を表現するニューロン連合が、他のニューロン連合との競合が起こったと
きに、優位になるように同期・振動が助けているようだ。こういう仕組みは、注意のバイアスを
かけているような時に、特に重要かもしれない。しかし、四十ヘルツの振動が意識が生じるの
に「必要」だ、とは現在ではもう信じていはいない。
*このあたりのことを我慢強く提案し続けることが大切だとおもう。
*重要なのは、この関係での、測定方法だとおもう。昔の人が電流計を知らなかったように、私た
ちもまだ、大切な何かの測定法を知らないのだろうと、漠然と思う。しかしそれは電流や磁気と
同じように、現世の物理学に属するものであり、超越的な何かでは全くないだろう。
このように、理論に流行り廃りがあって、我々の知識が不安定なのは、精神の基礎となってい
るニューロンのネットワークを研究するための既存の道具が力不足だからだ。大脳には何百億も
の細胞があるのに、現在の最先端技術の電気生理学の技術をもってしても、せいぜい数百個
のニューロンから発火を記録するのがせいいっぱいなのだ。つまり、一億個に一個の割合だ。一
万から十万個のニューロンの活動を同時に記録できるようにならなければ、本当に大きな成果を
得るのは難しい。
*
ジャーナリスト:何百億個もニューロンが大脳にあるのであるば、たとえNCCがあるニューロン連
合の活動に基づくとしても、かなりたくさんのニューロンの活動を記録しなれば、NCCを見過ご
してしまいますね。
*
コッホ: まさにそのとおり。現在のニューロン記録技術で科学者がやろうとしているのは、適当
に選んだ二、三人の人たちの日常会話を基にして、次回の大統領選挙の結果を占おう、というの
に近いでしょう。
*
ジャーナリスト: なるほど、もっともです。では、最初に十九九〇年の論文を発表した後は、クリ
ック&コッホはどのような仮説を提唱してきたのでしょうか。
*
コッホ: 次に我々は、意識の機能に注目した論文を一九九五年に発表しました。様々な状況に応
じた対処を素早く行なえるように、将来の計画を立てるようにするというのが、意識の主な機能
であろう、と我々は仮定した。この仮定自体は、他の思想家たちがすでに提案してきた仮説に比
べて目新しいものではなかった。我々はこの議論をもう一歩押し進めて、この仮定と神経解剖構
造からどんな結論が導かれるか、について考えた。脳の中の行動計画に関わる部位は前頭葉に位
置するので、NCCは前頭葉に直接にアクセスできなければならない。一方で、サルの脳では、頭
の後ろに位置する第一次視覚野(V1)内のニューロンは、脳の前部へ出力を全く送っていないという
ことがわかっていたのです。したがって、我々は、V1ニューロンは直接に視覚的な意識を生み出
すのには不十分であり、視覚意識はより高次の視覚野で引き起こされていると結論付けた。
*意識の機能として、「自分の内部状態をモニターして、その延長として、他人の内部状態を推
定し、他人とかかわるときに、有利な結果を引き出せるようにする」という考えがある。悲しく
て誰かに慰めてほしい場面だと思ったら、慰めてあげる、そうすれば友達になれる、まあ、そん
な話。自己の内部モニターが壊れている人がいて、そうすると、他人のこともうまく解釈できな
くて、人間関係を滑らかにできなくなってしまう。先天的に視力の弱い人がいるように、先天的
に自己モニターが不正確な人はいるもので、それがある種の性格の基盤になるだろうと思う。
コッホ:ここで注意して欲しいのは、我々は無傷のV1は視覚意識に不必要だ、と言っているわけ
ではないということだ。ちょうど眼の網膜にあるニューロンの発火活動が視覚的な知覚に相当し
ないように、V1の活動も意識の内容に直接相当するわけではない。もしも、網膜の活動と視覚が
一致するんだったら、盲点に相当する場所(視神経が集まって眼球から外へ出る所にある、光受
容体が全く存在しないところ)には、灰色の穴がぽっかりと開いたようにいつも見えるはずでし
ょう。つまり、網膜も大脳皮質の一部であるV1も、見るのに必要だが不十分だということです。
V1は、目を閉じた時に想像する具体的な視覚イメージとか、鮮明に感じる視覚的な夢を見るのに
も不必要かもしれない。
*
ジャーナリスト: どうしてそんなにV1こだわるんですか。NCCがV1に無かったということがわか
ったとしても、そんなに重要な発見でしょうか?
*まあね。
コッホ: 仮に我々の仮説が正しくて本当にV1にNCCは無いならば、わずかではあるけれども、着
実に意識の探求へと向けてにステップを進めていることになるでしょう。特に、最近出てきてい
る証拠は我々の仮説を支持するものが多いようです。そういう結果は、特に科学者にとっては、
とても励みになるものだと思う。正しい方法で科学的にアプローチすれば、意識の物質的基礎を
発見する、というゴールに向かって進展が得られることを実証するからだ。我々の仮説はさらに
、皮質での活動がすべて意識に昇るとは限らないということも含んでいる。
*
ジャーナリスト:それでは、広大な大脳皮質のどの部位に、NCCがあると思いますか?
*
コッホ:腹側経路、すなわち、「知覚のための視覚」を司っているこの経路のどこかに視覚意識
のNCCはあるだろうと考えています。さらに言うと、下側頭葉の中やその周りのニューロンがつ
くるニューロン連合が非常に大事だろう。この連合は、帯状回や前頭葉のニューロンからのフィ
ードバック活動によって活動が維持されている。このフィードバックによる反響的リヴァーブレ
イトリーな活動によって、競合相手の活動を抑えて優勢になることができる。こういう連合同士
の競合の様子は、EEGや機能イメージングを使って観測可能だ。今までは謎の多かったこれらの
脳の領域の研究は、電気生理学によってどんどん、日進月歩で進んでいる。中でも特にパワフル
な戦略は、「錯視」を使った研究だ。ある錯視では、見せる映像に対して生じる知覚が、一対一
の関係にならないことがある。入力映像はずっとコンピューター画面の上に出ているのに、ある
時はその刺激がある風に見えて、また別の時にはそうは見えない、そういう錯視がある。ネッカ
ーの立方体はこのパラダイムの良い例だ。そういう双安定バイステイブルの知覚は、前脳部に見
つかっている色々なタイプのニューロンの中から、「意識の足跡」を追跡するために使われて
いる。
*実際自分で経験してみると、不思議である。前に紹介した、右回りと左回りのダンサー。
ジャーナリスト:どうして、大脳皮質の後ろの方の知覚エリアと、計画・思考・推論を司る大脳の
前部との間での反響的なループが重要なのでしょうか?
*
コッホ:私がまさに先ほど述べたように、生物にとって、意識が重要なのは、それが計画・思考
・推論と深く関わっているからでしょう。生命を危機に晒すような事が起きると、それに伴っ
て様々な今まで経験したことの無いような状況に立ち向かわなければならない。そういう状
況で、 無意識の知覚運動ゾンビ・システムだけでは対処しきれないだろう。今まで経験したこと
の無いような状況に対処することが、意識の重要な役割なのです。頭の中に小人(ホムンクルス
)がいて、その本当の「私」が世界を見ているという感覚をつくり出しているのは、おそらく、
前頭前野と知覚皮質との間の投射が原因でしょう。脳の前部に座っている小人が後部の脳を見て
いると考えることができる。解剖学的な用語で言えば、前部帯状回、前頭前野、前運動皮質が、
後脳部からの強い駆動型のシナプス入力を受けているということだ。
*これは印象を良く説明していると思う。
ジャーナリスト: でも、脳の前部にホムンクルスがいるとすると、今度は誰がホムンクルスの頭の
内部にいるのでしょうか?無限ループに陥ってしまって、説明にならないのではないでしょうか

*これが古典的な指摘。
コッホ:ホムンクルス自体が無意識ならば、もしくは、我々の意識が持っている機能よりも限ら
れた機能しかもたないと考えれば、無限ループには陥らずにすむ 。
*そうかな?
ジャーナリスト:ホムンクルスが自由意志を持って、我々の意志とは独立に行動を起こすことはで
きるのでしょうか?
*
コッホ: 自由意志について語るときには、自分には自由意志がある、と知覚することと、意志の
力とをはっきり区別することが重要だ。例えば、ほら、私はこうやって手を上げることができ
でしょう。それに、私は「私」がこの行動を自発的に起こしたと確信できる。誰かが私にそうし
ろといったのでもないし、また、数秒前にまで、私はこんなことを考えてもいなかった。自分の
体などを自分で制御しているという感覚、自分が自分を一身に引き受けているという行動の主体
とも言うべき感覚は、生存にとって極めて重要だ。脳がそれぞれの行動を自分が起こした、とラ
ベルを貼って区別するのを可能にする。(もちろん、この主体知覚にはそれ自身のNCCがあるだ
ろう。) 神経心理学者ダニエル・ウェグナーが指摘するように、「私は行動を引き起こすことがで
きる」というのはある種の楽観論だ。そう考えることによって、悲観論者が試みもしないような
ことを、我々は確信と熱意をもって成し遂げることができる。
*自由意志もまた大問題。
ジャーナリスト: でも、あなたが手を挙げたとき、それは事前に起きた事から必然として起きたこ
となのでしょうか? それとも、あるいは自由意志によって起こされたのでしょうか?
*
コッホ: あなたの質問を言い換えると、「物理法則は、形而上の意味において『自由な』意志が
働く余地を残しているか」ということですね。誰しもがこの昔から議論されてきた問題に関する
意見を持っている。しかし、一般に認められている答えはない。ただ、私は、個人の行動とその
意図が解離しているという実例が多くあることも知っている。自分の人生でそういう矛盾した行
動と意志の例を探し出すことができるでしょう。例えば、岩棚の上に「登ろう」と思っていても
、身体が脅えてついてこないとか。あるいは山の中を走っていて、精神的にはくたびれているが
、脚が勝手に走り続けてしまったりとか。催眠術、心霊術、自動筆記、パソコンを使ったコミュ
ニケーション法(ファシリテイティッド・コミュニケーション、FC法)、憑依現象、群衆の中にい
る時に感じる没個性化、臨床における解離性同一性障害などは、行動と意志経験の間の解離の極
端な例だ。結局、私が手を上げるのが本当に自由なのかどうか、それがリヒャルト・ワーグナー
の「ニーベルングの指輪」に出てくるジークフリート神が世界秩序を破壊するときぐらい自由な
のかどうかは、私にはわからない。
*わたしは自由意志は錯覚だと主張せざるを得ない。しかし、ここで言葉の意味を哲学的に掘り下
げている暇があったら、人間のニューロン・ネットワークをどのようにして「測定」するのか、か
なり奇妙なアイディアまで含めて、トライした方がいい。
ジャーナリスト: コッホ教授にとっては、自由意志の問題は、NCCの探究とは別問題だととらえて
もよろしいでしょうか。
*
コッホ: まさにそのとおり。自由意志が存在しても存在しなくても、感覚経験という難問につい
ては説明がなされなければならない。
*そうです。
ジャーナリスト: NCCの発見は、我々に何をもたらすと思いますか?
*
コッホ: NCCの状態をオンラインで測定する技術のような、実際に役に立つものが我々に身近に
なるのは確かでしょう。医療従事者は、そういう意識計のようなものを使って、未熟児および
幼児、重度の自閉症患者あるいは老人性痴呆症、負傷のため話すことも合図を送ることもできな
い患者などの意識状態をモニターすることができるようになる。また、それによって、麻酔技術
もさらに進むだろう。意識がどのように脳から生じるのかが理解されれば、科学者はどの動物種
には感覚能力があるかがわかるようになるだろう。霊長類は、世界を我々と同じように視覚と聴
覚を通して経験しているだろうか? 哺乳動物はどうか? 多細胞生物は? これらの問題の解決は、
動物権アニマル・ライトの議論に深く影響するはずだ。
*そうかな?
ジャーナリスト: 具体的にはどのように?
*
コッホ: NCCを持たない種は、ある知覚入力に対して一定の運動を起こす、というシステムの集
合体、すなわち、主観的な経験のないゾンビと見なせる。そのようなゾンビ的な生物に、様々な
状況でNCCを示す動物と同じレベルの保護を与える必要はないだろう。
*そうか?
ジャーナリスト: ということは、苦痛を感じる動物をつかって動物実験などはできないことになり
ますか?
*
コッホ: 理想的にいえば、確かに動物実験などしないほうがいい。しかし、実際にはそうもいか
ない。私は一人の娘を乳幼児突然死症候群で誕生の八週間後に失ったことがある。私の父親はパ
ーキンソン病で十二年間も苦しみ、最期にはアルツハイマー病との合併症を起こして死んでしま
った。私の親友は精神分裂病の最も強烈な発作中に自殺してしまった。こういう悲劇や数多くの
神経系の病理を根絶するためには、動物実験はどうしても必要となる。細心の注意と、同情、場
合によっては、(この本に記述されたサル研究の大部分のように)動物達が自発的に我々に協力
してくれるような環境を整えて実験することが大事だ。
*
ジャーナリスト: 倫理問題や宗教に対してNCCの発見はどのような意味をもつでしょうか?
*
コッホ: 形而上学の視点から言えば、神経科学が相関関係コリレーションを越えて因果関係コ
ーゼーションに辿り着けるかどうかというのが重要なポイントになる。科学者が求めているのは
、神経の活動から主観的な知覚表象へと続く、一続きの因果関係を説明する理論なのだ。「どの
生物」に「どんな条件の下で」主観的な感情は生成されるのか?「何のために」、そして「どの
ように」意識が生じてくるのかを説明する理論が。もしも、万に一つの可能性として、そういう
理論を公式化することができたとしよう。その公式が、客観的に測定することができない、今の
とこ
自意識-2
*
コッホ:彼らが抱いている信仰の多くは、現代科学の世界観とはどうしても矛盾を起こしてし
まう。私がはっきりと言えるのは、すべての意識的な行為や意図には、物理的な何かに相関して
いるということだ。生命が終わると、意識も終わる。脳なしに精神は存在しないからだ。この否
定しようのない事実も、魂の存在、蘇生の可能性、および神に関しての信仰と矛盾しないかもし
れない。
*彼らが抱いている信仰の多くは確かに矛盾をひきおこす。しかし、非常に限られた、すばらしく
洗練された信仰の体系は、現代科学の世界観と矛盾を起こさない。神に関しての信仰と矛盾し
ない。
ジャーナリスト: コッホ教授は今、この本を書くという五年間の苦難を終えました。お子さんも大
学に入学しましたし、これからの人生の目標についてお聞かせください。
*
コッホ:モーリス・ヘルツォクがヒマラヤ山脈の初登頂を成し遂げたときの記録「アンナプルナ
」の結びの言葉の通りです:人生には他にもアンナプルナ山麓はあるさ。
自意識-3
第1章
*
意識研究入門
*
意識の問題があるから、心脳問題(精神物質二元論、the mind-body problem)はとても難しい。
しかし、意識の問題がなければ、心脳問題は全然面白くない。ところが、意識の問題は、絶望的
に難しいと思われる。
トーマス・ネイジェル(Thomas Nagel)「コウモリになるとはいったいどういうことか?」よ

*Nagel, T. “What is it like to be a bat?” Philosophical Rev. 83:435–450
(1974).これは懐かしい論文。しばらく机の上にあったと思う。当時は話し合う相手もいなくて、
この方面では結構孤独だった。引用回数の多い論文ではないかと思う。
トーマス・マンの未完の小説「詐欺師フェーリクス・クルルの告白」に登場するカカック教授は
、ヴェノスタ侯爵に対し、世界の創造における基本的で謎に満ちた三つの段階について述べて
いる。第一段階ではなんらかの物質、すなわち宇宙そのものが「無」から創造された。第二段階
では、生命が、無機物、すなわち、生命のないものから生まれてきた。第三段階では、有機物か
ら意識(consciousness)および意識をもった動物、すなわち、自意識を持ち、自分自身について
考えることができるような動物が誕生した。人間や、少なくとも何種類かの動物は、光を検知し
、そちらに目を向け、それ以外の行動をとる時に、こういった行動や状況に伴って、光の「眩
しさ」等の主観的な「感覚(feelings)」をもつ。我々は、この意識誕生という、驚嘆すべき謎
を説明しなければならない。意識の問題は、いまでも科学に基づく世界観が直面している重要な
難問のひとつである。
*三つの謎のうち、第二段階の、無機物から生命が誕生したことについては、完全ではないけれど
、説明がつくようになってきた。これはやはりすごいことだ。
*第一段階については、全くの、謎。見たこともない。
*第三段階については、どうにか説明できないかなあと思うが、これも、謎。
*宇宙創造は、我々の身辺で見かけることではないけれど、赤ん坊がだんだん人間らしくなるとこ
ろなら、みんな目撃している。意識のない有機物から意識のある有機物へ、連続した変化であり
、我々のほぼ全員に起こる。宇宙の歴史に中で一回起こったことではなくて、毎日起こっている
ことなのだ。何とか説明できそうな気がする。
1.1 我々は何を説明すべきか?
*
有史以来、我々人間は、「私たちは、一体どうやって、見たり、匂いをかいだり、自分を顧み
たり、記憶を蘇らせたりしているのだろう」、という疑問を持ち続けて来た。これらの感覚はど
のように生まれてくるのだろうか? 意識的な精神の働きとその物質的基盤、すなわち、脳内で
の電気化学的な相互作用との間には、どのような関係が成り立っているのだろうか? それが心
脳問題の最も根本的で中心となる問題である。 ポテトチップスのあの塩気の効いた味、ぱり
ぱりっとした食感。高山に登ったときに見えるあの空の濃青色。最後の安全な足場から数メート
ル上の絶壁で、わずかな手がかりにしがみついているときの、手の感触、ぶらりとした足の感覚
、それらからくるスリル感。一体、これらの感覚は、どのようにして、ニューロン(神経細胞、
neuron)のネットワークから生まれてくるのだろうか? こういった感覚、知覚の質感は西洋科学
、哲学の伝統において、クオリア(qualia)と呼ばれてきた。クオリアとは普段我々が「意識」と
いう語で指す事柄の中でも最も原始的な「感じ」、質感である。クオリアの種類やその強弱は、
それを直接感じている本人にしか厳密にはわからないところがポイントである。数日間断水させ
られた人が、水を飲むことを遂に許されたとき、彼の喉の渇きのクオリアが弱まることは第三者
にも想像できるが、実際の彼の喉の渇きのクオリアがどの程度かはわからない。普段あなたがコ
ンピューター画面上にある黄色い点を見るときは、強烈な黄色いクオリアを感じるだろう。とこ
ろが、後で紹介するようなある種の錯覚が起こる条件下では、この黄色いクオリアを引き起こす
同じ黄色い点も、クオリアを引き起こすのに失敗してしまう、つまり、黄色い点が消えてしまう
ことすらある! もちろん、錯覚がおこるような条件にさらされていない第三者の目には、同じ
黄色い点はやはり黄色のクオリアを引き起こす。クオリアは脳によって生じているが、なぜ、ど
のように、こういったクオリアが脳から生まれてくるのか、それが問題なのである。
*離人症の一部は、クオリアの消失なのだろう。
更に問題なのが、なぜある種のクオリアには、それ特有の「感じ」があって、それ以外の「感じ
」ではないのか、ということである。一体全体、何で、「赤い感じ」はあの赤い感じなのだろ
うか? どうしてあの「青い感じ」とは全く異なるのだろう? こういった「感じ」は、抽象的な
ものではないし、個人個人が勝手に決めたシンボルでもなく、人類にある程度は共通のもので
ある。このような感覚は、生物にとって何か「意味」のあるものを表わしている。現代の哲学者
たちは、ある事柄を表象する能力や、自分の外の世界にある何物かに「向かう」意識の能力、す
なわち、「志向性」等の精神の能力について議論している。主観的な意識は、常に何か外界に存
在するものについての意識である、ということを指して「志向性」という。例えば、あなたが赤
いクオリアを持ったときには、それは外界の新鮮で美味そうなトマトに「向かう」、もしくは、
トマトを「指し示す」。まるで、我々の主観である赤いクオリアからトマトへの矢印が出ている
かのように。意識が外界の何かに向かう、この矢印のような働きのおかげで、主観者の内部にあ
る表象が外界の何かに対し「意味」を持つことができるのだ。脳を構築する広大な神経の網目の
ようなつながり、ニューラル・ネットの電気的な活動から,「意味」がどのように生じてくるの
かという謎は、非常にミステリアスである。ニューラル・ネットの構造や、それらの接続パター
ンが、確実に役割を果たすというのは分かっている。しかし、具体的にそれらがどうやって「
意味」と「志向性」を生み出すのだろうか?
*「志向性」は現象学でよく言われる言葉だけれど、ここで何か関係があるかな?
人間および多くの動物が、状況や行動に応じてクオリアを経験するのはどうしてなのだろうか?
なぜ人間は、全く無意識のままに生きて、子供を生んで、育てていかないのだろうか? そんな
無意識のままの人生なんて、まるで、夢中歩行して人生を送るようなもので、主観的には、生き
ていると言えたものではないだろう。それでは、進化論的に言って、意識が存在する理由はなん
だろうか? 人間という種の存続に、他人とわかちあうことのできないクオリアはどのような利
点をもたらしたのだろうか?
*主観的クオリア体験がなくても、多分、立派に生きていけるでしょうね。
ハイチに伝わる伝説に、死者の蘇り、ゾンビが登場する。ゾンビは呪術師の魔力によって、操る
ものの意のままに動くという。哲学の世界では、「ゾンビ」というのは架空の存在として思考実
験に用いられている。外見上の立ち居振る舞いは、全く普通の人と変わらないが、意識、感覚お
よび感情が完全に欠けたもの、それが哲学用語としての「ゾンビ」である。哲学者が思考実験を
するときには、全く無意識であるにもかかわらず、あたかも普通の人間のような経験があると嘘
をつくように企んでいるゾンビを考えることもある。
*
そのようなゾンビを想像するのは非常に難かしいが、その事実こそが、まさに、意識が日常生活
に欠かせない重要なものだということを示している。かのルネ・デカルト(Rene Descartes)も自
己の存在証明時に言ったではないか。「私は、『私に意識がある』ことを疑いなく確信できる
」と。我々には常に意識があるわけではない。夢を見ていない睡眠中、全身麻酔にかかっている
間はもちろん無意識だ。だが、本を読んだり、喋ったり、ロッククライミングをしたり、考え
たり、議論したり、単に座ってぼーっと景色の美しさに見とれたりする時などは、たいてい我々
には意識がある。
*
脳の電気化学的な活動のほとんどは意識にのぼらない。この事実を認めると、単に、意識がなぜ
脳から生まれてくるかという漠然とした問題が、一歩踏み込んだものになり、なぜある特定の電
気化学活動だけが意識を生み出し、他の活動は無意識に処理されてしまうのか、というより具体
的な疑問が湧いてくる。ものすごい数のニューロンの猛烈な活動が起こったからといって、い
つも、感覚を覚えたり、何かのエピソードを思い出したりするわけではない。このことは電気生
理学による実験によって証明されている。例えば、反射的に動くときなどがそうである。なんと
なく、ぱっと足を振り払う。そのあとで、自分の足の上を、虫が這っていたことにに意識的に気
がつくなんてこともある。つまり、視界に入った虫を発見し、そして勢いよく足を動かすという
、高度な計算が無意識のうちに脳内で、まるで反射のように行われることがあるのだ。あるいは
、毒蜘蛛や銃などの生命を脅かす危険のあるものが視界に入るだけで、たとえそれらを意識しな
くても、身体が先に反応することもある。それらの危険物に対する恐怖が意識にのぼる前に、手
のひらは汗ばみ、心臓の脈拍および血圧は増加し、アドレナリンが放出される。蜘蛛や銃の発見
だけでなく、それらが危険なものであるという分析、そしてその分析に対しての反応までもが無
意識のうちになされることがあることの一例である。現在のコンピューターでも手に負えない、
知覚から行動までの複雑な一連のプロセスもまた、迅速にかつ無意識に起こっている。実際、サ
ーブを返したり、パンチをよけたり、靴ひもを結んだりといった、複雑な一連の動作は、繰り返
し練習をつむことで、無意識に素早く実行できるようになる。無意識の情報処理は、精神の働き
のうち非常に高次のものまでも含んでいる。大人になってからの行動が、意識的な思考や判断を
超えて、幼年期の経験(多くの場合、精神的外傷、トラウマなど)によって、深いところで決定
されることもある、とジーグムント・フロイト(Sigmund Freud)は主張した。高次の意志決定お
よび創造的な行動の多くが無意識のうちに生じている(この話題は18章でより深く扱う)。毎日
の生活を彩る出来事の非常に多くが意識の外で起こっている。このことは、臨床研究において見
られる患者の振る舞いによって、非常に強く支持されている。神経障害を持った患者、D.Fさん
の奇妙なケースを紹介しよう。彼女は、形を見たり、日常生活にありふれた物の写真を認識する
ことができない。それにもかかわらず、驚くべきことに、ボールをキャッチすることができる。
郵便受けポストの入り口のような、細い横穴の向きを水平なのか垂直なのか意識的には分からず
、口では「どっち向きかわからない」と答えるのに、彼女はさも簡単に、スリットへ手紙を入れ
ることができる。このような患者の研究によって、神経心理学者は、人間の行動の中には、まる
で反射のように無意識に行われるが、大脳によって高度に制御される必要がある複雑なものがあ
ることを突き詰めた。こういった脳を介した反射のようなものを、脳の中の「ゾンビシステム」
と呼ぶ。もちろん、ゾンビシステムは一般の健康な人の脳にも存在する。これらのゾンビシステ
ムは、視線を移したり、手を置いたりといった、決まりきった行動に限られており、通常かなり
急速に作動する。ゾンビシステムが作動を開始するのに必要な状況や入力、すなわちボールがこ
ちらに投げられたり、手紙を持ってスリットに向かったり、といった状況を意識的に思い出して
作動させようとしても、それはできない。例えば、D.F.さんは、ポストに向かった後、たった二
秒間目隠しされてしまうだけで、手紙を投函することができなくなってしまう。意識的には、ど
んな角度だったか思い出せないのだ。ゾンビシステムについては、本書の12章、13章で、も
う一度詳しく扱う。
*ゾンビシステムこそが基本で、自意識はその上に付加的に形成されたものだと考えることがで
きる。
このようなゾンビシステムが脳の中に備わっていることを知れば、「なぜ、脳は高度に専門的な
ゾンビシステムをたくさん集めただけのものではないのか」という疑問が湧いてくるだろう。も
し我々がゾンビシステムの寄せ集めだったならば、人生は退屈なものかもしれない。しかし、た
くさんのゾンビシステムが簡単に、そして、素早く働くのならば、どうして意識など必要なのだ
ろうか? 意識には生存に役立つなんらかの機能があるのだろうか? 将来の一連の行動の予定を
立てたり、その予定を吟味したりするときにこそ、色々なことに応用がきき、かつ、計画的な情
報処理モードである意識が必要なのだ、という主張を14章で展開することにしよう。意識は非
常に個人的なものであり、他人と共有されることはない。感覚は、直接に誰か他の人に伝えるこ
とができないので、通常、他の感覚を経験するときの様子に例えたり、それと比べたりすること
によってのみ、間接的に伝えられる。たとえば、あなたがどんな赤さを感じたのかを説明しよう
すれば、結局は、なんらかの赤の経験、つまり、「日没の時の赤」とか、「中国の国旗のよう
な赤」とかを持ち出すことになるだろう。出生時から盲目の人にあなたが感じた赤さを説明する
のは不可能に近い。二種類の異なった経験、例えば夕焼けの赤さと中国の国旗の赤さとの、類似
点や細かな相違について語ることに意義はあるが、ある一つの経験について、他の経験を持ち出
さずにそれだけについて話すことは不可能である。なぜ、我々はそういった手段を持たないのか
もまた、意識の理解が進めば説明されるべき事柄である。
*
実はこの事実、我々が自分の体験している世界を直接他人に伝えることができないという事実を
、我々の意識がどのように脳から生まれてくるかを研究するうえで、最も根本的なものとして重
要視せねばならない。どのように、そして、なぜ、ある特定の意識的な感覚を支えている神経の
物質的基盤(neural basis)が、それ以外の感覚を生み出したり、完全な無意識の状態をつくらな
いのか、この疑問に答えることが目標である。短い波長の光が青く、長い波長の光は赤く、あの
青さ、あの赤さでそれぞれ全く異なる鮮やかさで感じられるように、どのようにして、それぞれ
の感覚に私たちが感じる独特な質感が構成されているのだろうか。また、どのようにして、自分
の内部の主観的な感覚に、外界のものごとを指し示すような意味が与えられていくのか。また、
なぜ感覚は個人的なもので他人と共有されないのか。どのように、また、なぜ、多くの行動は意
識を伴わずに生じるのか。
*「なぜ感覚は個人的なもので他人と共有されないのか」というよりも、「感覚は個人的なもので
あるが、体験と神経ネットワークに共通性があるため、普遍性があり、共有できるものである。
共有できない場合に、病理的現象が生じる。」と私は考えている。
1.2 どんな答えがありうるか
*
17世紀中頃に、デカルトの「人間論」(Traite de l’homme)が出版されて以来、哲学者や科学
者は、現在の形の心脳問題についてあれこれと考えを巡らせて来た。しかし、1980年代まで、
脳科学におけるほどんどの研究は意識の問題を完全に避けてきたのである。ここ20年間でその
潮流に変化が生じ、哲学者、心理学者、認知科学者、臨床医、神経科学者、さらにはエンジニア
までもが、意識について学術論文や本を多数発表するようになった。これらの本は、現在の科学
的な知見を持って、意識がなぜ脳から生じるかという問題をあらためて「発見」したり、「説明
」したり、意識について「再考」し直したりすることを目的としている。本のタイトルも「意識
を再考する」だったりする。これらの本は、純粋な思索だけに頼ったものが多く、ニューロンの
集合体である脳から意識がどのように生じてくるのかを実際に科学的に発見するためには、どの
ようにして真摯な研究を行っていけばいいのか、という系統的で詳細な指針を示していない。そ
のため、本書で述べるような、意識が脳からどう生じてくるかの謎を解くための様々な研究のア
イデアには、これらの本の内容は全く役に立っていない。
*1980年代から、ここ20年で、状況が変わったと述べている。本当に変わったと思う。20年前、
Thomas Nagel「コウモリになるとはいったいどういうことか?」が提出され、エックルズとポパ
ーが共著で「三世界」の構図を示し、一方で、唯物論者たちは、創発論でお茶を濁していたと記
憶している。わたしはエックルズとポパーが好きだったが、理系の人たちには、軽蔑されただ
けだった。
フランシス・クリック(Francis Crick)と私がとるアプローチを紹介する前に、これまでの哲学者
が考えてきた、これらの問題へのもっともらしい答えを、ざっと見渡してみよう。ただし、ここ
ではあまり、深入りせず、それぞれの立場の単なるスケッチだけしか提供しないということを心
に留めておいていただきたい。
*
意識は不死の魂に依存する西洋哲学の父、プラトン(Plato)は、人間というものを、「永遠不
死の魂が、必ず死の運命にある肉体に閉じ込められた存在である」、と論じたことで広く知られ
ている。プラトンはまた、イデア(idea)は、我々の肉体が存在しているこの世界とは別の、イ
デアだけの世界に存在し、それらは永遠であるとも言った。このようなプラトンの考え
方(Platonic views)は、後に、新約聖書に組み込まれ、古典的ローマカトリックの魂(soul)に
ついての教えの基となっている。意識の根源には物質世界には存在しない不死の魂がある、とい
う信仰は、数多くの宗教に広く共有されている。
*これが一番安定した考え方なんだろう。何と言っても強力。
近代に入ると、デカルトが、「延長するもの」(res extensa)、例えば、物質としての実体
を持った神経や筋肉を動かす動物精気(animal spirit)、すなわち現代科学では明らかになって
いる神経や筋肉の電気化学的な活動のこと、と「思惟するもの」(res cogitans)、すなわち、
思考する実体、とに区別を付けた。デカルトは、res cogitans は人間に特有のもので、それが意
識になるのだと唱えた。デカルトがこのように全ての存在をこのふたつのカテゴリーに分類した
ことが、まさに精神物質二元論(dualism)とよばれるものである。それほど厳格でない二元論は
、すでにアリストテレス(Aristotle)や、トーマス・アクゥィナス(Thomas Aquinas)によっ
て提唱されていた。現在の最も有名な二元論支援者は、哲学者カール・ポパー(Karl Popper)
と、ノーベル賞を受賞した神経生理学者、ジョン・エックルス(John Eccles)だろう。
*20年前、「エックルズ先生も、歳をとって、死後のことを考えると、無神論的唯物論ではきつい
のだろう、歳をとればそんなものだ」、といった感じの文章さえあった。ポパーは三世界論だし
、その中の意識経験についても、単純に精神世界のことを言っているのではないように思う。極
端に言えば、物質世界と脳・意識と文化の三者が共進化する世界観といえばいいのだろうか。脳
と意識を特に区別しているとも思えなかったけれど、私の考え違いか。物質世界と、個人精神内
界と、人類が共有する文化の総体、この三者の関係といった感じのことだったように記憶して
いる。脳と心の問題についてはどのように言っていただろうか?
二元論は、論理上一貫している一方、原理主義的で言葉どおりの二元論は、科学的な見解からす
ると不満が残る。特に面倒なのは、魂と脳とがどのように相互に影響をあっているのかという問
題である。どうやって、どこで、その相互作用は起こるのか。おそらく、この相互作用は物理学
の法則と両立していなければならないだろう。ところが、もしそのような相互作用を仮定すると
、魂と脳の間でのエネルギーの交換がなくてはならないことになる。さらにそのメカニズムも説
明されねばならない。これらは非常に問題である。また、二元論によると、魂の一時的な宿主で
ある肉体が亡んだとき、すなわち、脳が機能を停止したとき、一体、何がこの不気味な存在であ
る魂に起こるのだろうか。幽霊のように、超空間を漂うとでもいうのだろうか?
*
精神の本質としての魂という概念は、魂が不死であって、魂の存在が脳に全く依存しないと仮定
すれば、矛盾が生じることはない。すなわち、魂とは、いかなる科学的方法によっても検出する
ことのできない、ギルバート・ライルのいわゆる「機械中のゴースト」、とみなすのである。つ
まり、魂は科学の扱う範囲外であると考えてしまうということである。
自意識-4
*
科学的な手段では意識を理解することは不可能だ伝統的な哲学的態度に、ミステリア
ン(Mysterian)と呼ばれる流派がある。ミステリアンは、意識の問題は複雑すぎて人間の理解の
範疇を越えると主張する。この流派には二種類ある。一方は、「どんな認知システムもそのシス
テム内部の状態を完全に理解することができない。同じように、我々の脳は、脳内部から生じる
意識の状態や仕組みは理解できないのだ」という理論的な主張である。もう一方は、現実的では
あるが、悲観的な主張である。愚かな人類には、知性に限界があり、既存の概念を大きく変更す
ることはできない。類人猿が一般相対性理論を理解できないように、意識がなぜ脳から生じるか
という問題は、人類にはとても及ばない問題なのだ、というものである。
*脳は脳を理解できるかという命題がある。
*一個のニューロンが、一個のニューロンを「理解」するとすれば、あるいは、一個のシナプスの状
態を、一個のシナプスで「理解」するとすれば、結局、そっくり同じものができるだけで、「理解」
とはいえないだろう。脳よりももう一次元、複雑さの程度の高次なものでなければ、脳を理解で
きないだろうとするもの。
*なんとなく分かるけれど、でも、脳は、そのように理解しているのではなくて、抽象化したり、
輪郭をつかんだりして、圧縮して理解しているのだ。海を構成する分子のすべてをひとつひとつ
理解しているわけではないが、H2Oがいっぱいあって、ナトリウムと、……なんていう具合に「
理解」するので、そのように、「情報圧縮」しても理解はできるのだと思う。
また別の哲学者は、「ただの物質に過ぎない脳が、意識をどのように生じさせることができるか
、全く予想もつかない。ゆえに、単なる物質である脳の中に、意識が生じてくるメカニズムを科
学的に研究しようとしても、絶対に失敗するに違いない」と断言している。こういった主張は、
彼等の無知を晒しているにすぎない。現時点で、脳と意識にはつながりがあるということを強く
支持する議論がないからといって、つながりがないことを証明することにはならない。もちろん
、これらの批判に答えるためには、科学こそが、このつながりを支持するような適切な概念や証
拠を提出していかねばならないのだが。
*
将来、意識を生み出す脳の仕組みを解明することは、単に技術的に難しいだけでなく、原理的に
不可能だと判明することがあるかもしれないが、現時点ではそのような結論を出すのは時期尚早
というものだろう。神経科学は、非常に若い科学分野である。息をのむような速度で、常により
洗練された方法によって、新しい知識が蓄積してきている。神経科学の発展が翳りを見せる前に
、そんなに悲観的なってしまう必要はない。意識がいかに脳から生まれてくるかを、ただ単にあ
る学者が理解できないからといって、この問題が人類の知性の限界を越えているというわけでは
ない!
*今のところ、原理的に不可能だと証明されてはいない。可能だと証明されてもいない。
意識は錯覚である
脳と意識の問題があまりにも難しいので、哲学者の他の流派には、一般には理解しがたいこと
だが、なんと、その問題自体を否定しまうものもある。この種の意識問題を否定してしまう哲学
流派は、行動主義(behaviorism)に起源を持つ。現代の哲学者の中では、タフツ大学(Tufts
University)の哲学者ダニエル・デネット(Daniel Dennett)が最も影響力を持っている。『解
明された意識(邦題)』(Conscoiusness Explained)で、デネットは、私たちが普段持ってい
る感覚、クオリアは、手のこんだイリュージョン、幻想、なのであると論じている。感覚入力シ
ステムと行動出力システムとが共謀し、人類の社会構造と脳の学習がその幻想をサポートしてい
るという。デネットは、人々が、自分に意識があると言い張っていること、その事実をまず認め
ている。そのうえで、「私には意識がある」と人々がずっと信じ込んでいる事実には説明が必
要だ、ということも認めている。但し、デネットによると、この信仰は「間違っている」。その
一方で、どのように脳から生じるのか非常に理解が難しいクオリアを、どれだけ鮮明に人々が主
観的に感じようとも、それは幻想なのだとデネットは言い切ってしまう。彼は、意識を研究しよ
うとする通常のやり方は、非常に間違っていると考えている。
*わたしはこの流派に近い。
*デネットがイリュージョンと言うとき、何を意味しているのか、吟味しなければならない。吟味
してみれば、納得する部分があると思う。
通常意識がどうやって脳から生じるかを考える場合、意識を持つ主体の側からみた、主観的な意
識が問題になっている。この主観的な意識が、なぜその人だけにしか経験されないのか等、主観
者の側からの疑問に対しての説明をしようとするのが通常のアプローチだ。このような説明の方
法を、意識のファースト・パーソン・アカウント(主観者説明、First-person account)と呼ぶ。
それに対して、デネットは、そのような説明ではなくて、意識を第三者の目で見たときに説明さ
れるべき事柄(例えば、意識を持っている種はそうでない種に比べ、生存に有利な点はあるの
か等)だけをターゲットにした、サード・パーソン・アカウント(第三者説明、 Third-person
account)を目標にするべきだと主張する。「ある波長の光が網膜に影響を与え、被験者に『赤
い光が見えた!』と叫ばせた。」という叙述は、第三者の視点でなされた客観的な叙述である。
物理法則、化学法則から説きおこして、なぜ、脳の中のニューロンという単なる物質が起こす電
気化学的活動が最終的に主観的な意識に至るのかまでを順を追って説明することはあまりに無謀
に見える。そのため、最後の部分、すなわち脳から意識が生まれてくる部分を幻想だと見なし、
科学的に存在しないものは説明できないという立場をとる。
*「すなわち脳から意識が生まれてくる部分を幻想だと見なし、科学的に存在しないものは説明で
きないという立場をとる。」という解説は正しいのか?
デネットによると、歯が痛いというのは、しかめっつらをしてこらえる、といった、ある行動を
とること、もしくは、痛い側の口で噛まないようにしよう、とか、逃げて苦痛が去るまで隠れて
いたい、といった、ある行動をとりたいという欲求をもっている状態だと考える。これらの、
デネットが「反応的な傾向(reactive dispositions)」と呼ぶ、外部から観察され、研究しやすい
ものは、現実に存在するものであり、それがどうして起こったのか、その後何が起こるのかにつ
いては、説明がなされなければならない。しかし、苦痛の不愉快さそのもの、これは幻想であ
って、その捉えがたい感覚は存在しないとする。
*「苦痛の不愉快さそのもの、これは幻想であって、その捉えがたい感覚は存在しない」というよ
うに、「主観的な意識」「主観的な経験」を消去してしまったら、不思議は消えてしまう。やは
りここをきちんと説明したいと思うのは、著者に賛成。
日常生活において主観的な感情が中心的位置を占めていることを考えると、クオリアや感情が錯
覚であると結論づけるには、相当量の実際的な証拠、科学研究を必要とする。哲学的な議論は、
論理的な分析と内省(introspection)、すなわち 自分の内部を真剣に見つめることに基づいて
おり、科学的方法に比べ 現実世界の様々な問題を取り扱うには全く力不足である。哲学的方法
では、微妙な論点を決定的に論じ、定量的に決着をつけることはできない。哲学的な方法論が、
最も効果を発揮するのは、問いをたてるときである。悲しいかな、長い歴史を持った哲学は、自
らがたてた問いに答えたためしがほとんどないのである。私が本書でとる中心的なアプローチは
、ファースト・パーソン・アカウントを、乱暴ではあるけれども、人生における明らかな事実と
見なして、それを説明しようと努力するというものである。
*
意識の解明には根本的に新しい法則が必要とされる
一部の科学者たちは、脳に関しての更なる事実の積み上げや原理の発見ではなく、新しい科学法
則こそが、意識にまつわる謎を解明するのに必要であると主張している。オックスフォード大学
のロジャー・ペンローズ(Roger Penrose)は、名著『皇帝の新しい心(邦題)(The Emperor’
s New Mind )』の中で、「現代の物理学では、数学者の直観(大きくは一般の人々の直感も
含む)がどのように生じるのかを全く説明することができない」と論じている。近い将来のうち
に公式化が期待されている「量子重力論」がこの問題を解く鍵であり、どんなチューリング式
(Turing)ディジタルコンピューターもこなすことのできないプロセス、数学者の直観が、人間の
意識によって、どのようにして生み出されてくるかが、「量子重力論」によって説明されるだ
ろう、とペンローズは信じている。アリゾナ大学ツーソン校の麻酔専門医スチュアート・ハメロ
フ(Stuart Hameroff)とペンローズは、体中すべての細胞にある、微小管(マイクロチュー
ブル、 microtubles)に注目している。微小管は集まると、外部の酵素の働きなどを必要とせ
ずに、勝手に組みあがって大きくなるという性質がある。微小管が多数のニューロンをつないで
、量子の共鳴状態(coherent quantum states)をつくるのに中心的な役割を担うのだ、とハメロ
フとペンローズは提唱している。
*ロジャー・ペンローズの本も、分厚い本で、読み始めるまで、億劫、そしてこの手の本は、大部
分が既知の基礎的な事柄のⅢ確認になっているので、その点でも退屈。ペンローズ氏の確信は、
とても同意できるものではない。
*おおむね、学者仲間から見放された時点で、一般向けの本を書いて、さらに失望させてしまうも
のである。
数学者は一体どこまで非計算論的な真実を直観的に理解できるのかという問題や、コンピュータ
ーを用いて数学者の直観を実現できるのかということに関し、ペンローズは、活発な討論を巻き
起こした。しかし一方で、高度に秩序だった物質である脳の中で、ある種の動物の脳には少なく
とも意識が生じてくるのはなぜか、という問題に量子重力(quantum gravity)がどう関わってく
るのか、はっきりしたことを何も説明していない。確かに、意識と量子重力はそれぞれが不可解
な側面を持っている。しかしだからと言って、片方がもう片方の原因なのだ、と結論付けるのは
、恣意的で根拠がない。巨視的な量子力学的効果の事例が、脳内において一例も報告されていな
い現在、これ以上彼らの考えを追求することに意味はないと思われる。
*そうですね。トンデモ系。

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